眞子さまの先例…「朝融王婚約破棄事件」との奇妙なリンク


文・高梁モトヤ

朝融(あさあきら)王事件

大正13年(1924)年、皇太子(昭和天皇)と良子女王(香淳皇后)のご成婚の直後に起きた「とんでもないこと」が起きた。通称「朝融(あさあきら)王事件」と呼ばれる、その内容は、皇太子妃の実兄久邇宮朝融王の婚約破棄とそれにまつわるゴタゴタである。当初、関係者たちは問題を極秘裏に処理しようとしたがうまくいかず、やがて外部に漏れ「事件化」してしまった。

その間の経緯が今日でも詳しく分かるのは、宮内官僚であった倉富勇三郎の日記が細かく記録しておいてくれたからである。彼の日記は『倉富勇三郎日記』(全9巻)として国書刊行会から刊行されている。加えて当時、宮内大臣であった牧野伸顕の日記『牧野伸顕日記』(中央公論社)もこの問題を詳説しており興味深い。

そしてこの「朝融王事件」は、現代の眞子さまと小室圭さんの一件を考察するうえでも興味深い一視点を与えている。読んでいけば解るのだが、朝融王のやっていることは、小室母子にそっくりなのだ。そしてこの朝融王と結果的に破談となった酒井菊子は幸せになり、めぐりあわせで朝融王と結婚する羽目になった知子女王は夫の不義に苦しみ不幸な人生を歩むのである。

眞子さまにこの記事を捧げたい。

久邇宮朝融王

婚約成立まで

さて、“大正時代の小室圭”の異名を誇る朝融王が、婚約したのは酒井伯爵家の菊子である。婚約にいたる詳細は不明だが、大正5~6年ごろ、まだ学習院中等科に通っていた朝融王が、学習院女学部中等科に通学途中の菊子に一目惚れしたのがことの始まりらしい。王は当時17歳だから、少年の恋である。たまたま菊子は王の妹信子女王と同学年、また、姉の秋子は良子女王と同学年で、両家の少女たちは親密な関係だったから、恋の成就には都合がよかった。現に、朝融王の恋文を良子女王が菊子に渡したこともあったという(『倉當日記』2月7日条)。

そして、久邇宮家では朝融王の婚約について天皇に内々願い出る。皇室典範第40条には「皇族の婚嫁は勅許に由る」とあるから、天皇の許しがなくては朝融王は妃をもらえない。いつ、どのような形で願いが出されたのかは確認できないが、『牧野日記』には、「大正六年御婚約」とある(大正13年2月15日条)。いずれにしろ、天皇は許しをあたえ、朝融王と酒井菊子の婚約は整った。



ところが、突然、この婚約を久邇宮家が破棄したいと言い出したのだ。当の朝融王も、父親の邦彦王も、「絶対に菊子とは結婚しない」「させない」と言い張る。邦彦王がその理由としてあげたのは「婚約の女には節操に関する疑あり。此疑ある以上は如何なることありても之を嫡長子の妃となすことを得ず」ということである。節操云々の内容については後述するが、結論だけ言えば、邦彦王の疑いにはまったく根拠がなく、それを自身も承知していた。

だが邦彦王は「真偽が定かでなくても、疑いがあるだけでも問題だ(尤も節操のことは的確なる事実は知り難き、疑丈けにても承知し難し。之を妃となすことは先祖に対しても済まざることと思ふ)」と主張する。とにかくなにがなんでも婚約を解消したいのである。こうなると最早、久邇宮家だけで処理できることではない。

困った久邇宮家宮務監督の国分三亥は、皇族・華族に関する事柄を担当する宗秩寮の徳川頼倫総裁(旧和歌山藩主家。侯爵)に相談をもちかけたが、徳川としても「勅許を得た婚約が、そんな薄弱な理由で解消出来るわけがないではないか」と言うしかない。だが久邇宮家側の婚約破棄への意向は強く、とうとう宮内大臣に報告することとなった。この経緯は『倉富日記』の1924年2月3日条に詳しい。

以上が事件の枠組みと、発端の概要である。そして、これを知ったほとんどの人が、同じような感想を抱くにちがいない。「なんだ、宮中某重大事件とまったく同じ構図ではないか」と。

たしかにその通りである。いったん天皇の許しを得た皇族の婚約の解消をめぐる卜ラブルという点で、両者は瓜二つである。しかし、宮中某重大事件と朝融王事件をくらべると、グロテスクなのは後者であることは言うまでもないだろう。なぜならば、某重大事件において婚約を解消される側の「主役」だった人物が、朝融王事件では婚約を解消する側の「主役」として登場しているからである。劇の観客たちとしては、唖然とせざるをえないのであった。

その後、久邇宮家宮務監督の国分三亥は2月5日朝、野村礼譲とともに宮内大臣牧野伸顕を訪れた。『牧野日記』にはつぎのようにある。

「国分、野村両氏入来。朝融王〔久邇宮〕御婚儀の件に宮家御希望の次第継々申出あり。事容易ならず、考慮し置くべしと答へ置く。出省の上、〔徳川〕頼倫〔宗秩寮総裁〕侯へ談示し置けり」

もちろん、宮内大臣としては邦彦王の希望を、「はい、そうですか」と認めるわけにはいかない。牧野は「重大なことなのでよく考える」と国分らに答え、宮内省に出勤して徳川宗秩寮総裁に、「今朝、国分たちが来て、朝融王と酒井菊子の婚約を解消したいと申し出た」と告げた。

その後、宮内省内で話し合いが何度も重ねられた。邦彦王が「婚約解消」の根拠として言いたてていた「節操」云々の噂が流れたルートについて調査が進んだ。「金子某(金子有道男爵)が酒井伯夫人の妹の嫁し居る前田利定の夫人より之を聞き、其ことを久邇宮分部某に話し、分部より久邇宮に告げたるものなる由」とルートが判明し、金子男爵に聴取したところ「この噂はもともと前田夫人が話したものだ。いまさら自分に責任を負わせるのはおかしい。聞き間違いかも」と逆切れ。噂の大本とされる前田利定の夫人・清子は「そのようなことを言った覚えはない」とこれを否定、以上の調査から「節操」云々は根拠のない噂話と判断されたようだ(『倉當日記』3月6日条)。



さらに牧野は、慎重に事態に対処するため、皇室界の長老であった閑院宮載仁親王を訪ね、朝融王問題について言上し事情を説明した。すると載仁親王は「(ご裁可が得られている以上、噂話を根拠にして)婚約破棄などできるわけがないではないか」と一蹴した。

これを受け牧野は、2月14日に邦彦王と面会し、朝融王と酒井菊子の婚約遂行を邦彦王に迫った。『牧野日記』には次のように記録されている。

「此れは道徳上の問題たるは勿論、殿下には今日となりては直接御縁続きの事なれば、本件の取扱如何に依りては御立場に非常なる困難を来しては、実に容易ならざる義」「今日の国運は多難、(中略)唯、皇室の尊厳、御高徳の旺盛に依って統一を保つ事も相叶ふ次第なり。其皇室に於て人倫道徳を傷つける様の出来事は、極力之を避けざる可からず」

この言葉の理解するためには「邦彦王の長女・良子(香淳皇后)が裕仁皇太子(昭和天皇)と結婚している」という前提を知っておく必要がある。つまり、「皇太子妃の父親として天皇と“直接御縁続き”の皇族が、根拠のない噂で婚約破棄を宣言するという“人倫を傷つけるようなこと”をしては国運にもかかわる」というのだ。この時すでに大正天皇の身不調は国民の間に知れわたっており、牧野たちにとっては、皇太子(昭和天皇)と良子女王(香淳皇后)のご成婚は国民の「統一」のための希望の星であった。それなのに、誰あろう皇太子の舅が信じられないようなことを言い出したのである。

この牧野の必死の説得に、邦彦王も「一々尤もなり。左様なくてはならぬ」と、全面同意の言葉を口にした。だがどうしてか邦彦王は引き下がらない。

「本件に付ては数年来頗(すこぶ)る苦慮したる末にして、今日まで此儘にして放任し置きたるは、一方殿下御婚儀に妨害をなしては相済まずと考へたるを以てなり。己に目出度万事御結了なされたるに付、懸案を解決し度申出たるなり。畢寛、万策尽きたる結果の発意なれば宜敷(よろしく)諒察あり度」

つまり、皇太子と良子女王の結婚を邪魔したくないので黙っていたが、ずっと婚約破棄したいと思っていたのだ——というのである。さらに邦彦王は続ける。

「自分の動機は令嬢に関係の伝聞なり。之は噂に止まるとするも先祖に対しては済まず。二、三男なれば兎も角、嗣子の配偶としては認容する事能はず」

“節操に問題がある”という噂があるので嫡男の配偶者に相応しくないというのである。相手である酒井菊子の「節操」については、先に述べたように、宮内省内で調査を重ね「根拠なし」と結論付けている。牧野は反論する。



「如此根拠ある事と認め得ざる風評を前提として、己に六年に渉り成立したる約束を破壊する事は、道徳上の責任も夫れ丈け深甚なる道理なれば、到底之を敢てするは事情許さざる儀なり。大臣は殊に此風評には信を置く事能はざる旨を申上げたり」

根拠のないうわさを前提として、婚約を破棄することは道徳上許されない——。さすがの邦彦王も反論できなかったようで「余程御困まりの御様子に恐察せり。要するに前記の噂さは口実に供せられたるもの葛如く、実際若宮(朝融王のこと)の御請願の切なるものありて御決心遊ばされたるものの如く拝察す」と記している。

酒井菊子

破棄強行

牧野の必死の説得もまったく父・邦彦王と息子・朝融王には通じなかったようだ。邦彦王訪問から三週間余が過ぎた3月8日、牧野は徳川を自分の代理として邦彦王のところに派遣した。

だが徳川に対し邦彦王は「酒井令嬢〔菊子〕品行問題は全く取消」と、節操疑惑を取り下げたものの、「両者到底円満の共同生活見込なきに付、可然(しかるべく)大臣におゐて配慮頼む」と婚約破棄を繰り返すだけであった(『牧野日記』1924年3月8日条)。

朝融王と酒井菊子の婚約を実行することは、邦彦王の強硬な態度から考えて、もはや実現は困難だ。松平慶民などは「いっそ久邇宮家から解消を申しださせ、朝融王にはその責任をとらして臣籍降下させたらどうか」などと言いだすほど本件一方的で理不尽なものであった(『倉富日記』3月10日条)。しかし、久邇宮家の側から婚約解消をおこなうのは不可能である。なぜなら、久邇宮家は皇太子妃を輩出した格別の宮家であり、なにより婚約は天皇から“ご裁可”を得ており、皇族がそれを無にすることはありえない。

となると、酒井家からなんらかの理由をつけて解消を願い出、久邇宮家もそれに同意し、天皇がそれを仕方なく認めるという形にするしかないが、本来、なんの落ち度もない酒井家が、ドロをかぶるようなことを承知するはずはない。

これを実現させるべく動いたのは徳川頼倫である。徳川は、酒井家の側から婚約を辞退する旨願い出てもらえるよう説得する交渉人(貴族院議員の水野直・子爵)を見つけ出し、事態収拾を計ったが、これが難航し上手くいかなかった。

久邇宮邦彦王

すっぱ抜かれた事実と、朝融王の仰天行動

破談に向け説得交渉が続いている途中にも拘らず、やがて、この騒動が新聞にすっぱ抜かれた。最初に関係記事を掲載したのは9月6日付の『万朝報』であった。倉富の日記には、大狼狽した様子が記されている。

「切抜を兄たるに、兼て久邇宵の朝融王と酒井忠正(原注・伯爵)の妻の妹菊子と婿約ありたるが、此度突然宮家より婚約解除のことを酒井家に申込まれ、是まで類例もなきことにて、宮内省にては大臣(原注・牧野)、次官(原注・関屋)、徳川及び予等大狼狽を為し居る旨を記し居れり」

どうやら酒井家と交渉にあたっていた水野直が、責なく破談にされる菊子を不憫に思い、良い縁談を探そうと奔走していたことで情報が漏洩してしまったようだ。事態が袋小路に迷い込んでしまったわけだが、時間が解決させたのだろうか、酒井家も徐々に態度を軟化させていく。一方、我慢できず仰天行動をしでかしたのは当の朝融王だ。

なんと朝融王は、戦艦「安芸」撃沈訓練を視察するため「金剛」に乗艦した摂政裕仁親王(昭和天皇)と対面した機会をとらえ、未解決にもかかわらず「酒井家との問題は解決した」と言ってしまったのである(『牧野日記』9月16日条)。さらに、このときかどうかは分からないが、朝融王は菊子を傷つける目的で「菊子は不治の肺病なので結婚できない」と裕仁親王により重大なウソをついていた。『牧野日記』には、11月15日に牧野が貞明皇后と摂政裕仁親王に拝謁したときに、摂政が次のように仰ったという。

「実は朝融王より〔酒井〕菊子は肺疾の憂(原注・此の御言葉は精確に記憶せず、兎に角肺患を理由として)あるに付、中止したき御話しありたるに付、そう云ふ血統の皇室に入る事は宜からずと考へ賛成したる事あり、夫れに矛盾せざるや」

仰天した牧野は慌てて「今日まで菊子嬢の問題に付て病気と云ふ事は曾て故障になって居りませぬ」と否定した。裕仁親王(昭和天皇)は朝融王の不誠実さに呆れ果て、菊子に大いに同情し、後にこれを忖度した近衛文麿らが奔走し、旧金沢藩主家の当主・前田利為侯爵との縁談をまとめた。

決着へ

一時は袋小路に陥ったと思われたが、事態は徐々に、確実に動いていた。時が傷を癒したのだろうか、酒井家は11月17日までに婚約辞退を久邇宮家と宮内省に連絡。17日に宗秩寮(宮内省に設置された内部部局)はつぎのような発表をおこなった。

「朝融王殿下酒井菊子と御結婚のこと予て御内定の処、今回酒井家に於て本御結婚の将来を慮り辞退を申出たる趣を以て、宮家より御内定取消御聰済の儀願出られたるに就き、其手統を了せり」

要するに酒井家からの辞退申し出を久邇宮家が了解し、それを宮内省に届け出たので所定の手統きをすませたという筋書き通りの発表である。ついで久邇宮家もつぎのような声明を出した。

「朝触王殿下予て泗井菊子嬢と御結婚のこと御内定の処、今回酒井伯爵家より右御婚約を取結ばるることを辞退致度旨申出たり。素より伯爵家に於ても何等特別の事情ある次第に非ず、全く本御結婚の将来を考慮したる結果に外ならざることにて、事情誠に已むを得ざる儀に就き、当宮に於かせられても御聴済相成為伯爵家に対しては将来とも特に従来通御交際相成度思召を以て、其の旨同家に申進めり」

酒井家も声明文を発表した。

「当家菊子と朝融王殿下との間には、予て御結婚の御内定を見たるが、祁々宮家の御近状を承はり、本御婚儀の将来を慮り、甚だ恐朏には堪へざれども当家より御婚約を取結ばるることを御辞退申上たる処、幸に御聴済相成たるのみならず、当家に対し将来とも特に御懇情を賜はるべしとの御内意を伝へられ、誠に感銘に堪へざる次第なり」

なお酒井家は記者会見を開き、記者からの質問に答えた。11月18日の『東京朝日新聞』によれば「本人(菊子)も諦めて居ます」「山のような同情の手紙が来ている」などとも述べたようである。

その後

宮内省・酒井家・久邇家の発表によって事態は完全に収束した。その後、それぞれがどのような人生を歩んだのか記しておきたい。

酒井菊子は、近衛文麿らが尽力し、その年の12月中に旧金沢藩主家の当主・前田利為侯爵との縁談がまとめられ、12月20日に結納、翌大正14年(1925)2月7日に結婚式を挙げた。前田菊子として、四人の子宝に恵まれ、戦後はマナーやエチケットに関する評論家として活躍し1986年まで生きた。

一方の朝融王は、菊子と競うように結婚相手を探し、伏見宮博恭王の三女・知子女王との縁談が持ち上がり、大正14年(1925)1月10日に“ご裁可”、13日に“納采の儀”、26日に“婚儀の礼”が執り行われた。だが結婚後も朝融王の素行は悪く、侍女を妊娠させてしまう。息子の不始末を聞いた邦彦王は、「朝融の不品行にも困ったものだ。隠しておくわけにもいかないから、普通に処理せよ」と言うが、そう簡単にはいかない。最も気の毒なのは妊娠させられた侍女を除けば妻・知子妃であることは言うまでもない。

昭和3年(1928)6月29日の『倉富日記』には、宮家事務官の山田増彦から事実を知らされた妃が、「実家の父に心配をかけたくないから、なるべくなら事を秘密にしてくれないか」と頼んだあとで、つぎのように肩を落とし言ったとある。

「(父から)朝融王も酒井との婚約破れ、速に結婚出来ざれば、其面目にも関するに付、朝融王に婚することを承諾せよと云はれ、自分(原注・知子女王)は其時より犠牲になふる積りにて結婚したり」

そして、時を経て、朝融王はもうひとつ常識では考えられないようなエピソードを残した。

知子妃は昭和22年6月に死去するが、それからしばらくして朝融王(すでに皇籍離脱し、正確には久邇朝融)は、姪にあたる東久邇成子(昭和天皇の第一皇女。照宮)を通じて菊子に結婚を申し込んだというのだ。菊子の夫・前田利為は戦死しており、この時未亡人であったが、にわかには信じがたい仰天行動だ。小室佳代さんと良い勝負かもしれない。この経緯については東久邇成子の親友でもあった、利為と菊子との長女・酒井美意子が『ある華族の昭和史』に書き残していることである。「嘘つきと結婚しても不幸せになるだけ」ということだろう。

朝融王が小室圭さんに、彼と結婚した知子女王が眞子さまにかぶってしまうのである。

朝融王妃知子女王

2 COMMENTS

匿名

ごめんなさい
私にはよく理解できませんでした。

自ら願い出て婚約内定したのに、後に皇室側が解消を望むも裁可を頂いていたので簡単に破談にできなかったという話ですよね。
ですが今回、内親王も小室家も破談したがってはいない
更に小室家側に非があるのだから、非がないにもかかわらず泥をかぶった酒井家とは全く似ても似つかない
似てますか?

22
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椿

本当にどこが「似てる」と言いたいのか❓
酒井伯爵令嬢の菊子様は、久邇宮家の我儘で「身持ちが悪い」などと言う、
とんでもない「名誉棄損」の噂を流されたあげく、
菊子様から「結婚を辞退しろ!」とは、本当に何様❓って感じで、
香淳皇后のご実家に対して、不快感満載です!
久邇宮家の犠牲になられた菊子様や知子様は、本当にお可哀そうだと思います。

ですが、眞子さんと小室さんは、全く違うでしょう❓
小室氏が「下種な人間」だとわかった上で、「皇室に泥を塗る」とわかった上で、
国民に恨み言を言いながら、結婚を強行突破した眞子さんですよ!

自分の意を通すなら、せめて「皇籍離脱」してから、
結婚するのが筋と言うものなのに、皇室を嫌いながら、
皇室の良いとこ取りだけして、いまだに国民の血税を使って、
NYで暮らしている、恥さらしじゃないですか❓!

菊子様や知子様の毅然とした犠牲的精神とは、雲泥の差です!
と言うよりか、もはや同じ人間とは思えないくらい『品格』が違い過ぎます!

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